AI時代の習い事について

こんにちは。シラチャの学習塾 リクラスの田中です。

皆さんは、「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉をご存じでしょうか。

かつてアイザック・アシモフの『我はロボット』や、アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』で描かれたような、AIが人間の知能を超えてしまう世界のことです。 「AIが人間に襲いかかってくる!」なんて、かつてはSF映画や都市伝説の定番でした。さすがにそんな物騒な未来がすぐに来るとは思いませんが、今のAI技術の進化を見ていると、あながち絵空事とも言い切れない「現実味」を帯びてきているのは確かです。

子どもたちが日常的にAI生成の動画を楽しみ、何でもAIが答えてくれる現代。ふと、こんな疑念が頭をよぎりませんか?

果たして、これから身につける知識や技能に、どんな価値があるのだろう?

未来を生きる子どもたちには、なおさらそんな不安がつきまとうかもしれません。

しかし、私は今こそ、英会話やそれ以外の「学び」はこれまで以上に重要になると考えています。そこには、AIには決して届かない人間としての「手触り」「個性・豊かさ」に繋がるからです。

AIには読み切れない「言葉の体温」

Google翻訳があるから、英語なんて勉強しなくていい」 そんな極端な意見も耳にします。

しかし、翻訳精度が上がった今でも、翻訳サービスにある種の「限界」を感じることはありませんか? 日本語に変換されたとき、意味はわかってもどこか無機質で、受け取り方ひとつで誤解を生みそうな、そんな「言葉の隙間」です。

例えば、私の地元・大阪の言葉。 大阪では「片付ける」ことを「なおす」と言いますし、「捨てる」ことを「ほる・ほかす」と言います。でも、一歩関西を出れば、これらは「修理」や「放置」と誤解されてしまいます。

同じ日本語ですらこれほどの壁があるのに、文化も歴史も違う外国語であれば、そのギャップはもっと深い。言葉の裏にある「ニュアンス」や、その場の「空気感」までをAIが完璧に汲み取れる日は、まだ遠いでしょう。あるいは来ないかもしれない。

さらに言えば、仮に翻訳機が100%の精度になったとしても、翻訳機越しの100点満点の言葉より、拙くても一所懸命に自分の声で伝えようとする姿勢。そこに宿る体温こそが、相手との「信頼」を築く唯一の鍵になるのです。

スマホをポチポチ触って伝えられた文章よりも、コミュニケーションを取るために学習した力を使って伝えようとする言葉の方が素敵だと私は思います。

「体験した者」にしか見えない景色

このことは、英会話以外のものにも共通しているのではないでしょうか。

スポーツは当然そうですね。AIには身体を動かすことは叶いませんので、これは言わずもがな。

 では、ピアノやギターなどの楽器はどうでしょう。AIやウェブ上に溢れるソフトを使えば、完璧な演奏を瞬時に生成できますが、自分で一度でも弦を弾き、鍵盤に触れたことがある人なら知っているはずです。一曲を弾けるようになるまでの葛藤、指先の痛み、そして音が響いた瞬間の震えるような喜びを。

その経験があるからこそ、プロの演奏を聴いたときに「この一音にどれほどの修練が宿っているか」を肌で感じ、心から感動できる。自ら苦労して練習した者にしか見えない景色があり、その解釈の深さこそが、その人の「人間味」という魅力になります。そういった意味で、音楽はスポーツとかなり近いものがありますよね。

では、習字はどうでしょう。手書きで字を書くこと自体が減って、デジタルの文字が溢れる現代。しかし、だからこそふとした署名の際のサインが美しかったり、漢字やひらがなを丁寧に書けたりすることは、それだけで日本人らしい「粋」な特技であり、知性や品格を感じさせる「かっこいい武器」として、価値は一層高まっているように思えます。

学ぶことは、人生を「冒険」に変えること

英会話や音楽、習字だけでなく、算数で論理的思考を養うことも、国語で物語の裏にある感情を読み解くことも、すべては世界に対する「探求心」を育てるプロセスです。AIは「答え」を教えてくれますが、未知の事柄に「なぜ?」と首を突っ込む「ワクワク感」、そして学んだ先にある「達成感」までは授けてくれません。

知的好奇心を持って学び続ける人は、いくつになっても目が輝いています。 その探求心こそが、人生を単なる「効率的な作業」ではなく、彩り豊かな「冒険」に変えてくれるのです。

多くのことが自動化される時代だからこそ。 自分の言葉で繋がり、自分の指先で奏で、自分の知性で世界を面白がる。そんな「学ぶことでしか手に入らない豊かさ」を、私自身も、子どもたちと一緒に追い求めていきたいと思っています。